第5回 SONHOUSE初全国ツアー

◆郡山ワンステップフェスティバル

全国ツアーの前に、郡山ワンステップフェスティバルの話をしよう。

博多から福島県郡山市まで汽車をさんざん乗り継ぎ、それでもまだ若かったからか疲れもそれ程感じず現地に到着した。
会場はだだっ広い野外グランドのようで、なんだかウッドストックフェスティバルを思い起こさせワクワクする。

周りには有名なミュージシャンがゴロゴロしている。
陳信輝、ジュリーに、サリー(岸部一徳)、俺達の顔見知りは関西から来たウエストロードブルースバンド位で、半分ファンの気分になりキョロキョロしていた。

そんな浮ついた感じと、さあこれからやってやるぞと気合いも入り、さほどプレッシャーは感じず何だかワクワクしてきた。

「郡山ワンステップフェスティバル」でのサンハウスのステージ。
同フェスは'74年8月福島県郡山市の開成山公園で行われた。

観客はかなりバラエティにとんでいて、ヒッピー風あり、学生、ごく普通の人。
ステージ前を陣取っていたファンは殆どがジュリー目当てだ。
俺達は名前を知られているわけでもなく、ただ思い切りプレイしようとステージに上がった。
さすがにジュリーファンにはパッとしなかったが、ヒッピー風の奴らは大いに盛り上がってくれ、他のバンドと比べても反応はすこぶる良かったと思う。

後にSONHOUSEを郡山で初めて観たと覚えていてくれたり、尖ったサウンドがその日で一番光っていた、と聞くと成果はあったかなと思えた。
フェスティバル全体の印象は意外と素朴で、目立ったトラブルも無く平穏に幕を閉じたと思う。
SONHOUSEとしては出演して知名度も上がり、実りあるライブであった。

70年代頃はフェスティバルの主催者側もミュージシャンもエネルギッシュで筋書きも無かったから、初めの方の出演バンドに猛烈なアンコールが起こり押せ押せになることもあり、実に自然で健康的なフェスティバルだった。

今時は全く台本通りで、スムースに事は進むが良い意味で殺気だった雰囲気やハプニングなどは期待できない。はっきり言って面白みは薄れているだろう。

まあ、ボヤいてもしようがないので、サンハウス全国ツアーの話をしよう。



◆サンハウス全国ツアー

一緒にまわるバンドはテイチクブラックレーベルからレコードを出していることもあり、トランザムと佐井好子、ツアーの後半は佐井好子に代わって中山ラビ。

ところでトランザムのオリジナルメンバーは凄かった、ギター石間秀樹、ベース後藤次利、キーボード篠原信彦、ドラムチト河内、そしてヴォーカルがトメ北川。
このトメ北川が高校の同級生でその頃から博多ではスターだった。
ちょっと中性的な声、唄は上手いし味がある。当時の俺には憧れの的であったが、共にステージに立つ者としてそうは言っていられない。
何とかトランザムに負けまいと頑張っていたが、プロとアマチュア程の差がありプレイでは太刀打ち出来なかった。
バンドはテクニックだけではない、サウンドが大切だと解っていながらも悔しかった。
すべての面で負けたくないという気持ちがメラメラと燃えあがるが、どうしようもなかったのを今でも覚えている。
今回のツアーはこのメンバーではなく、オリジナルメンバーはドラムのチトさん、キーボードの篠やんのみ。
パーカッションにサンチョ・ナバナが加入するという新トランザムだった。
ヴォーカルはトメ北川ほど個性的でファンタスティックな感じではなかったが、ロッド・スチュアートばりの上手なヴォーカルだった。

各場所でサンハウスがトリだったり、トランザムが務めたりで全国を流れ歩いた。
途中鉄道のストに重なり貸し切りのバスで移動したこともあった。
当時はライブハウスというものが無く、すべて○○会館、ホール、体育館などの場所でのコンサートだったが、知らない土地の割には結構客が来たしウケも良かった。
想像以上だったのが、仙台、福島、旭川、札幌。
仙台、福島はワンステップの成果があったのか大入りで、気持ちよいプレイが出来た。

時間の合間に街をぶらつくとすれ違う人々が振り返り、店員などはわざわざ店から出てきてまで俺を見た。
喫茶店に入れば、怖がっているのか気味悪がっているのかオーダーを取りに来ないこともあった。
金髪の腰まで長いロングヘア、化粧を施し膝下まである毛皮のコートをはおっていたのだから、今ならともかく30年も昔の話、仕方のないことである。

旭川は大雪で博多生まれの俺には想像がつかないことも多かった。
凍った湖はバスケットボールのような大きな石を投げ込んでも割れなかったり、一晩で何十cmも雪が積もるのを目の当たりにし、驚いたりロマンティックな気分にもなった。
大雪で会場はもうスタート時間が近いというのに人が殆どおらず、此までのワースト記録を抜くかと思われたが、開演を40分遅らせてみるとなんと400人近くも来てくれた。
札幌ではコンサートの前日にススキノのディスコで2ステージほどトランザムとのセッションもあり、楽しい思い出となった。
旭川、札幌と想像以上の寒さだったが、客はとても熱く素晴らしかった。


その後、東京でどういうわけか振り付け師が現れ、江戸川区公会堂を貸し切り練習したことがある。
これまで人にああしろこうしろと言われたことがない俺達は面食らうと同時に心の中でグループサウンズのアイドルバンドじゃないんだぞ!と密かに反発してまともに言うことも聞かず無駄な時間にしてしまった。

おまけにその日はどのホテルも満室で、事務所が用意したのはラブホテルだった。
東京まで来てそんなホテルに泊まらせられるなんて冗談じゃない、最終便で博多に帰るぞと抗議をしたらなんとか西荻窪の旅館をとってくれ一段落。
しかしそこの旅館には門限があり、何も知らずいつものように遅い時間に戻った俺達は閉め出されてしまった。

長いツアーでは色々なことが起こる、日々ライブと移動の繰り返しで、ストレスが溜まったり喉の調子も落ち不機嫌になりメンバーの顔を見るのさえもうっとうしくなることがあった。
今思うと本当にメンバーにはイヤな思いをさせたなと思う。
その他なんやかんやトラブルに見舞われたが全体的にツアーは楽しく最初の頃はあまり会話をしなかったトランザムの連中や、中山ラビとも打ち解け、ラビに化粧をしてやったり和気あいあいの旅はまだまだ続く。



どこの会場かはもう覚えていないが「ロックンロールの真最中」を演奏中、マコちゃんのギターの弦が切れ、篠山の弦も切れ、あろうことか奈良のベース弦まで切れるというハプニングがあった。
なんとか鬼平のドラムと俺でと思ったが、さすがに最後までもっていくことが出来ず途中で止めてしまった。

せめてギター1本でもあれば何とかなったのだろうが、当時の俺の技術では到底無理な話で敢えなく沈没。この音源が残っていたら是非聴いてみたいところだ。

当時曲順も前もって決めてなく、サウンドチェックでだいたいを構成する位でPA泣かせなバンドだった。
なんせ鬼平の超ド級のパワーは相変わらずで、音が作りにくいとエンジニアが良くボヤいていた。
俺達はどこ吹く風とマイペース、鬼平はやはりバスドラの皮を踏み破り、ペダルは折り、シンバルを叩き割っていた。まさに破壊王である。


ツアー先ではレコードの宣伝などでラジオ、新聞、雑誌の取材もある。
俺はインタビューでは博多弁丸出しで、相手とのコミュニケーションに支障が出ていちいち意味を説明するハメになった。
標準語で話そうと初めは気を付けるのだが、つい盛り上がると出るのは博多弁、意外に大変な思いをした。

特にラジオとなると話が咬み合わず、レコードをかけて形を整えてもらったが、「有頂天」の曲は殆ど放送禁止状態だったので「スーツケースブルース」と「風よ吹け」ばかりになり、たまに「地獄へドライブ」「借家のブルース」をかけてくれる放送局があるだけだったな。


当時は振り返る余裕も無かったが、今こう思い出してみると意外に客ウケが良かった。
しゃべりで客を煽るのを好まなかったSONHOUSEは誤解を受けることも多かったが、どのステージでも盛り上がっていたような気がする。

その頃同業者からは下手くそバンドと良く言われた。直接でなくどこからか耳に入ってくる。
ある音楽評論家に、オマンコだけがロックンロールじゃない、と言われたことがある。
はっぴいえんどやその周辺の音楽を支持するシンガーソングライター好きのO.Eという奴だが、以前からこいつだけには褒められたくないと思っていたので嫌われてホッとした。
今当時のライブ音源を聴くとそれ程ヘタくそではないと思うのだが、メタル、ハードロックにも無い、パンクにも無い、猛り狂った荒々しさがあるのは間違いない。

初めての全国ツアーもなんとか無事終了し、次は博多のビッグトゥゲザーという場所でライブレコーディングすることが決定した。

ビッグトゥゲザーは中州にあったディスコで、当時スタンディングライブは皆無だったのでかなり新しいスタイルだったのかも知れない。

この頃になると博多ではSONHOUSEも認知されてきた、俺達は2枚目のアルバム製作に取りかかることになる。


マネージャーの松田氏と菊

目次