〜第6回〜 セカンドアルバムレコーディング風景

有頂天」に続くセカンドアルバムのレコーディングということで、多少の余裕はあった。レコーディングする曲は全部キチンと揃っていたし、東京にも慣れてきて休みの日をどう過ごすかなんてことも密かな楽しみの一つだった。

レコーディング初日にプロデューサーのジョニー野村氏がアレンジャーとしてなんとエディ藩をスタジオに連れてきた。ゴールデンカップスは好きなバンドだったので、おおエディ藩だ!とミーハーな気分になったが、レコーディングという大きな仕事を前に浮かれている場合ではない。しかしサンハウスの曲にアレンジャーを付けるとは一体どうするつもりなのだろう。俺達が作る音じゃ駄目なのか、と不安がよぎった。

野村氏はファーストアルバムよりもっとグレードの高いものを作ろうという考えだったのだろうが、なにせ当時のサンハウスはメンバーが作り出した音以外のものを受け入れる余裕も空気も無く、何か気まずい雰囲気がスタジオに漂いだしてしまった。エディ藩も頼まれ仕事で来てみたという感じだったのか、さっさと帰ってしまった。

今考えればとても失礼な事をしてしまったと思う。しかし何の接点も無いところからいきなり仕事を始めるという方が無謀というか滅茶苦茶な話で、それでもハプニング的に何かが生まれることもあるが、当時俺達は週5日はリハーサルをしていたし、曲が完全に出来上がっていたので、その可能性は殆ど無かったと思う。

とにかくレコーディングは始まった。アルバム全体のビジョンはこれといって無かったので、まずは作った曲をプレイするところから入り、少しずつアイデアを加えながら進んでいった。


ところで当時俺達がよく聴いていた音楽は、ブルースからロックンロール、リズム&ブルース等のルーツミュージックから、ベルベットアンダーグラウンド、ルー・リード、MC5、ストゥージズ、アリス・クーパーなどNYやデトロイト系のもの、ロキシー・ミュージック、デヴィッド・ボウイ、フェアポート・コンベンション、ストロウブスなどのブリティッシュ系が多く、ウエストコーストやサザンロック系はあまり耳にしなかったね。

アルバムタイトルにもなっているインストゥメンタル「にわか」は、当初ドラムとベースも入っていたのだが、プレイし終わってミキシングルームで音を聴いている時にふと、ドラム、ベースを抜いて聴いてみようというアイデアが出た。結果、ギターが浮遊しているというかファンタスティックでこれは面白いということになって、多少の音のかぶりは無視して2本のギター音を使うことになった。

又、「雨」へと繋がる部分に雷鳴と雨音を入れてエンディングとしたのだが、トラックダウンが済んだ時点でどちらも消されていて何も入っていなかった。全員が東京に行くのではお金がかかるというので、トラックダウンは代表してマコちゃんが行ったのだが、きっとその現場でこれはいらないだろうという意見がどこからか出たのだろう。

仕方がないことだが、やはり全員で参加して納得のゆくような状態にしなければいけないとつくづく思った。
今でも雷鳴と雨音が入った「にわか〜雨」を聴いてみたいと、このアルバムを聴く度に思う。


レコーディング途中遊び半分で、「ふっと一息」(当初はアルバムに入れる予定ではなかった)をちょっとルー・リード風に演ってみた。その場で大体の構成を決めた一度きりのプレイだったが、一応音を撮ってもらっていた。適当な遊びなので、特に聴き返しもせず、次の曲へとレコーディングは進行していった。

すべての音入れが済んだ後、その「ふっと一息」のことなど忘れていたのだが、全体をタレ流して聴いてみたら、何だか凄く雰囲気が良かった。そしてめでたくアルバム収録曲となった。今までのサンハウスには無かったもので、ちょっと胸を張りたい気分だ。

当時ルー・リードやブライアン・フェリーの唄い方を面白半分で真似て遊んでいたのが、今となって唄に凄く幅が出たと思う。以前のマディ・ウォータースやハウリン・ウルフ、ジョン・リー・フッカー等の影響に混ざってそれらが俺の中に入り込み、日本語の歌詞を唄うアイデアが豊富に湧き出した。そうして現在の菊唄法が出来上がってきた、と言えるだろう。


ところで今回もエンジニアが有頂天の時と同じ人で、元は演歌専門だっただけに音作りにセンスが無く、それでも2枚目となれば少しは進歩しているかとも思ったが、相変わらずだった。スタジオで聴くとシステムが良いせいもあって、おー凄いなぁーと納得するが、ホテルに帰ってもう一度聴いてみると何だか物足りない。日本にはジョン・パンターやケン・スコットのようなエンジニアはいないのか、とがっかりしたり、諦めムードになったが、その都度気を取り直して頑張ってレコーディングしたおかげでなんとか当時のベストのものが出来上がった。


アルバムの中で一番苦労したのが、「雨」で、どうしても声が一曲通して続かず上手く唄えない。結局部分録りしていくことになった。俺はそんなこと今までやったことがないし、どうすればいいのか要領が掴めず、ただ言われるがままにやった。声を伸ばしすぎたり、早く切りすぎたり、自分ではどうかなと思う部分も、OKが出たのならまあいいか、という感じで、もう早くこの場を抜け出したいという本当に苦痛だった。

どうもレコード会社や事務所が「雨」をシングルカットしたかったらしく、あれやこれややらされたが、結局断念してくれて助かった。今ならもう少し上手く唄えるのかも知れないが、当時はこれが精一杯だった。テクニックもそうだが、まあ一番の原因は俺の根気の無さとも言えたのだが。

色々問題を残しつつもレコーディングは終了し、アルバムタイトルもマコちゃんのアイデアが通って、「仁輪加」となった。

仁輪加 LP発売1976.6.25(Black BAL-1014),LP再発(HR-9),CD再発1992.2.21(TECN-18135)

SIDE-A
爆弾
だんだん
あの娘に首ったけ
ふるさとのない人達
おいら今まで
ふっと一息

SIDE-B
どぶねずみ
ぶんぶん
にわか〜雨
あて名のない手紙
やらないか

※再発CDのみボーナストラック「あの娘は18才」収録(EP音源)


残るはアルバムジャケットだ。博多の画家が描いた切腹するざんばら髪の男の背景は、トーテムポールのような男の性器や卑猥な絵がいっぱい描かれてあった。俺はそれ程でもなかったが、メンバーには大不評だった。
結局皆の意見で却下、切腹と背景の卑猥なオブジェを外してOKが出た。

最近その原画を見たのだがなかなかシャレていて、このまま出せば良かったと本当に悔やんだ。

又、ジャケット裏のメンバー写真は絵はがきのイメージで…そう、ロキシー・ミュージックのファーストアルバムの見開き中写真を存分に意識したのだが、見事に失敗!!!紙質もイギリス盤によくあるコーティング紙を希望したが、これも思うようにならなかった。

それでもジャケット以外は大体思った感じに仕上がり、中の上程度の満足だった。

こうしてサンハウスのセカンドアルバム「仁輪加」のレコーディングはなんとか終了したのである。

▲“幻”となった仁輪加のジャケット
  イラスト:原田健治

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