第1回 | 1★ ブルースと云えば石原裕次郎の「夜霧のブルース」とか、鶴田浩二の「赤と黒のブルース」。それがブルースだとばかり思っていた・・・ | ||
1963年、まだ俺が15か16位の頃、不良呼ばわりされていた時代の話だけどヤクザまがいの先輩に連れられて出入りしていたバーやダンスホール。薄暗い照明と煙草の煙がムンムンする中、お姉ちゃんとベターッと抱き合って踊るための音楽、それがブルースだと思っていた。 まだ青二才のくせに、ツイストなんか踊る奴はガキでやっぱりカッコイイ遊び人ともなるとジルバ、これがマスター出来てない奴は女にモテなかった。そのジルバでお姉ちゃんの目を引いておいて、ブルースが流れ出すと本命の女をチークに誘う。ここまでくればもう100パーセント天国行きの列車に乗れた。 当時のダンスホールとはその名の通り踊りに行く場所で、男は女を、女は男をナンパするスペース。全部が全部そんな奴らばかりって訳でもないが、大体がそうだった。広い所で ON AIR EAST位から新宿LOFT程のものまで様々あって、博多では「赤と黒」「慕情」「美松」あたりが有名どころだった。 バンドは皆スーツを着てロックバンドと云うよりは、こんなにカッコ良くはないけどELVIS PRESLEYのバックで演っているようなスタイルが多かった。曲もインストゥルメンタルがほとんどで、ワンステージで2,3曲ヴォーカルが入るという感じ。女はロングドレス、男はタキシードとこれが定番、歌謡曲から洋モノまでそれぞれの持ち唄があってみんなすごく上手だった、スターだったね。特に関東、関西方面からワケありで流れて来た奴らなんか、一皮も二皮もむけたとても魅力的な雰囲気を持っていた。 |
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2★ 怖い物知らずの純情愚連隊 俺はと云えば、相も変わらず愚連隊まがいの事ばかりやっていて、このままいったら間違いなく就職先は「○○組」なんて事にもなりかねない状態。少年課の刑事なんかにも色々迷惑をかけていたが、あまりエゲつない事はしでかさなかったせいか、刑事らにも結構可愛がられたり心配してくれたりもした。 それにやることと云ったら「ケンカ」する位の事だったし、悪友の野元、有末、ミっちゃん(光吉)、野口、杉等とつるんで他校の生徒や、街のチンピラ、年上だろうが何だろうが手当たり次第って感じだったけど。他校に5,6人で殴り込みをかけて、時には数10人に取り囲まれ絶対絶命の危機に陥ったり、正義の味方よろしくチンピラにからまれている女の子を助けたり、大体その程度の事だった。 リーダー格のミっちゃんは歳が俺達より2つ上で(幼少に脊椎カリエスにかかり、入学が遅れた。又、病気の後遺症でせむしだった)、彼がとても正義感の強い人で、何故か近所の大人達には非常に評判が悪く俺の親も彼とは付き合うなとよく言っていたが、俺達は何も気にせず付き合っていた。中学を卒業してみんなバラバラで違う高校に行っても、いつもつるんで天神界隈をブラつきたむろしていた。ちょっと名の通ったグループでもあった。 そんな統率力のあったミっちゃんが突然病気で倒れ、入院した。そしてあっと云う間に帰らぬ人となった。 病名は「小児ガン」だった |
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愛犬チビと。 | ||
3★光ちゃんの死、ギタリスト笠原との出逢い、そして音楽への目覚め ミっちゃんの死後、胸にポッカリと穴があいたような日々が続いた。葬式の時ミっちゃんの兄貴が言う、「弟は死んだ。おまえ達もいい加減にチンピラの真似事はやめて、もうちょっとましなきちんとした生活をしろ。今のような事ばかり続けていたらいつか殺されるぞ」と。多分その言葉も重くのしかかっていて気分も晴れなかったのだろう。しかしそれでも相変わらずの毎日、将来への夢、これから何をしようとかツメの先ほどもなかった俺にとっては当然といえば当然だったかも知れない。 本当にあの頃は何もする気にならず、とりあえず学校には行っていたが、只のヒマつぶし、授業もロクに受けず家には寝に帰るだけ、ひどい時には溜まり場から学校に通っていた。悪い友達は増えるわ、つまらない義理みたいな事でケンカに巻き込まれるわ、家庭裁判所の世話になるわで、もうどうしようもない生活を続けていた。よく退学にならなかったものだと今となっては不思議でならない。 そんな日々が続いていたある日、ダンスホールにたむろしていると、何処かで見たような奴がギターを弾いているのに気がついた。ハンチング帽を深めに被り、黙々とギターを弾いている。どこかで会ったことがあるなぁと思ったくらいで、何となく時間が過ぎていった。そんな記憶が薄れかけていた頃、学校で一人の男が俺に近づいて来て、「俺がダンスホールでギターを弾いていることを内緒にしてくれ」と云った。なんや、お前やったとや。どこかで見たことがある奴がギターを弾きようと思いよった。ふーん、そうや・・・。バレると停学くらいは間違いない、分かった、心配せんでも誰にも云わん。そんなことから奴と話をするようになり、仲良くなっていった。 さすがに怠け癖がついて、いい加減な生活に嫌気がさしかかっていて、何か笠原がやっている事がとても新鮮に見えた。華やかと云うか、キラキラと輝いていて、女の子にも人気があった。別に俺がもてなかったワケでもなく、結構不自由しなかったし、それなりに楽しんでいたのだが、それでも奴が眩しく見えた。俺も音楽は嫌いじゃないし、いつの間にか笠原のバンドにくっついて色々と手伝うようになった。 バンドにくっついていればひょっとしたら女にももっともてるかも知れないとか、オコボレにあずかれるとかそんな下心があったのも確かだが、一番の理由は笠原のギターの上手さだった。当時何も知らないズブのシロウトだった俺にでもその上手さははっきりと分かったし、奴のギターを聴くのがとても楽しかった。俺も何かをやってみたい衝動にかられ、今で云うローディのような事をしながら、ドラムの練習をすることにした。何故にドラムかは、石原裕次郎の映画「嵐を呼ぶ男」を観て、かっこいいなぁと思っていたのが一つ、又、小林旭の「ギターを持った渡り鳥」を観た時はギターってかっこいいと思ったのでギターでもよかったのだが、笠原があまりにも群を抜いて上手いので、到底太刀打ち出来ないと、それでこっそりドラムを練習していた。いつかは笠原と一緒にバンドを組みたいという気持ちがあったのだろう。 その頃から、他のバンドを観るときはいつもドラム中心、上手いドラマーを色々と勉強していた。
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4★ロックンロールで真面目になった? 笠原の名前はバンド仲間のうちでもかなり知れ渡っていた。学生バンドJOKERS のギタリストから大人の中に入ってギターを弾くようになっていった。彼の家には練習スタジオがあって、俺や野元はよくそこにたむろしていた。JOKERS の練習を見学したり、レコードを聴いたりして時間は過ぎていった(当時はVENTURES, SHADOWS, FABULOUS JOKERS, SAFARI'S などが主流)。 時々例の遊び癖が頭を持ち上げて夜の街をふらつき、けんかをしたり、一夜の恋を楽しんだり、挙げ句の果てに変な病気を貰ったり。そういえば俺と野元と園原で女をナンパしてホテルにしけ込んだのはいいが、みんな金が無くて明け方笠原に緊急連絡をしたことがあった。 「ホテル代が無いけん、お金貸しちゃってんっ!」 笠原は持ってきてくれたが、完全に怒っていた。 「今回は仕方がないけん持って来ちゃったばってん、次は無いじぇ!!!」 それでも音楽の世界というか、笠原のスタジオで何か不思議な充実感を得ていた。 大体その時期から少しずつ音楽への魅力に惹かれはじめて、当時バンドなんかする奴は不良と云われていたが、俺達はバンド、音楽と巡り会って真面目になっていった。次第に俺と野元は時々ドラムを演らせてもらうようになった。 そんな日が続くうちある日笠原が、「柴チン(俺のアダ名)、唄ば覚えてきやい」と云う。 ええーっ、俺が唄うとや!? 驚いたものの笠原にレコードを手渡され何となくその気になって、夢中でレコードを聴き込み初めて洋楽を覚えた。 最初に唄った洋楽、それはRAY CHARLES の UNCHAIN MY HEART, LITTLE RICHARD の SEND ME SOME LOVIN' LUCILLE 。まだ若かったせいかあっと云う間に覚えた。今思うと、とんでもなく難しい曲でまあよく平気で唄っていた物だと驚いてしまう。それで初ステージは、はっきりと記憶にないが確かダンスパーティーだったと思う。インストナンバーが続くうち、突然俺の出番が廻ってきた。緊張するとか恐怖感を覚えるとかの余裕すら無く、ステージは始まりそして終わった。どれほどの時間唄っていたのかも分からず、只真っ暗で何も見えない中で必死で唄ったような気がするし、自分の声も聞こえなかったような状態だった。 笠原から、良かった良かったバッチリ、柴チンうまいやないや!と云われてとにかくほーっとしたのを今でも覚えている(お世辞か慰めだったろうけど)。しかし練習もせず、ぶっつけ本番でよく出来たもんだと、今だったら全く考えられない事で・・・、まあ多分ひどかったんだろう。が、何よりも嬉しかったのはパーティーに来ていた女の子に声をかけられたり、憧れの眼差しを向けられたこと、まるでスターになったかのような気分に酔いしれていた。 初めのうちはその3曲で満足していたが、笠原がいろんなレコードを持ってきて次第にレパートリーが増えていった。その中には笠原のオリジナルも含まれていた。 |
5★KEITH 誕生の前触れ
半分遊び気分のまま時は過ぎ、JOKERSも自然消滅していった。笠原は大学に進学し、俺も後を追うように一浪して大学へ進んだ。笠原とまたBANDしたいねなどと話しながらなんとなく過ごしていたある日、俺が中洲をぶらぶら歩いていると俺達が慕情(ダンスホール)でライヴしていた頃に時々遊びに来ていた正木とバッタリ出会った。 |
“アイビーなんてぶっ飛ばせ” ちょっとここでこぼれ話。その頃の俺のファッションといえば相変わらず愚連隊のイメージが抜けず、バンドマンというよりはチンピラ風だった。 日活の全盛時代、石原裕次郎、小林旭、赤城圭一郎が主役を演じていた“無国籍映画”、「ギターを持った渡り鳥」や「霧笛が俺を呼んでいる」等に出演している主役じゃない街のヨタ者が着ているようなファッション、派手な品の無い柄シャツ、ボートネックのボーダーTシャツに白のラッパズボン、髪はフロントを少し伸ばした角刈り。冬はペンシルストライプのスリーピースに、ピンホールのYシャツにネクタイ先が尖った靴、又は七分袖のダボシャツに雪駄履きなんてのも。大体そんなスタイルが定番で、まれではあるが着流しスタイルの奴もいた。 世の中はアイビールックが流行し始めた頃で、ちんちくりんのコットンパンツにボタンダウンシャツやマドラスチェック、コインシューズや先が丸い靴に白靴下を着た奴らがとても女々しく見えて嫌いだったし、よくからかったりしていた。 それでも音楽の世界に入れば入るほど、ファッションのアンバランスが気になりはじめ、少しずつ変化が出てきた。当時アイビーの「VAN」に対抗して、「JUN」もチラホラ出始めて、ちょっとヨーロッパ風だったJUNに魅力を感じ、新しいファッションに興味を持ち始めた。 |