第3回

1★名無しのブルースバンド発進

あと一年と数ヶ月が過ぎれば大学も卒業する、そうなれば家の仕事を手伝うかどこかに就職をするか真面目に考えなければならない時期に来ていた。まわりの同級生は就職活動に明け暮れ、一人又一人と進路が決まっていった。とりあえず俺は大学と家の手伝いを平行してやってはみるものの、怠け癖がついた夜型の身体はどうにもこうにも云うことを聞いてはくれない。

長く伸ばした髪も思い切りバッサリという決断がどうしてもできない。それに心の底から好きになってしまった音楽を諦める気持ちにもなれるわけが無い。まだ学生だという気分が抜けないのだろうか・・・。いい加減なことばかりやっては長兄にいつも文句を云われ、俺の心がふらふらしているのを見抜かれてか、休日にも仕事に駆り出された。
挙げ句の果てには正月までも働かされる始末。それでもその頃の楽しみは、大学に行くふりをして、コンボというジャズ喫茶に入り浸ること。その頃ジャズロックと云われる新しいサウンドが生まれ、俺もどんどんジャズの世界にのめり込んでいった。
コンボに行けばいろんな俺の知らないジャズ系のミュージシャンのレコードが聴けたし、その中で気に入ったモノを買い込んでは家でも聴きふけっていた。マイルス・デイヴィスに夢中になって、「イン・ザ・サイレントウェイ」「マイルス・イン・ザ・スカイ」「ビッチェズブリュー」などロック寄りなものから入って行った。その他にチャールズ・ミンガス、セロニアス・モンク、ジョン・コルトレーン、チャールズ・ロイド、オーネット・コールマン、エリック・ドルフィー、マル・ウォルドロンなど山程聴いた。

魅力的な音はまだまだ世の中にたくさんある。日々が過ぎていき、だんだん仕事をやるのがいやになっていく。なんか大学を卒業するのが恐くなってきて、不安だらけの毎日が続く。その頃、ベーシストの平野(通称ヨンちゃん)にセッションをやろうと誘われて、出掛けてみた。彼のアパートに行ってみると本人は留守で、一人の男が小さなアンプの前でギターを弾いていた。そのギターは俺がこれまでに聴いたものとは全く違っていた。上手いというよりはこんなギタリストがこの日本にいたのかと思うほど魅力ある音を出していた。ヨンちゃんが帰ってきてセッションの話になり、一週間後に「蘇洲」というナイトクラブで昼間パーティーがありそこでプレイすると云うことだった。リハーサル無しで不安はあったが、多少金にもなるし一度くらいならいいかとOK。そして当日演る曲を決めて本番、出来具合がどうだったかはもう覚えてはいないが、とりあえずなんとか形にはなったような記憶がある。又、今度なんかあったらセッションしようと云うことでその日は別れたのだと思う。

そうこうしている内に俺もハラをくくり、オフクロや長兄に大学を卒業したら家の仕事に入ると約束し、大学に通いつつかなり真面目に仕事をするようになった。2人とも安心したらしく、俺が受け持つ仕事を新しく起こし、俺はそれに向かって突き進む決心を固めた。少しずつ仕事を覚え面白みを感じ始めていた頃、とある一本の電話がかかってきた。「俺はアタックというバンドでギターを弾いていた篠山というものだけど、今度新しいバンドをしようと思うが良かったら一緒にどうか?」。
しかし、俺はもう卒業後は仕事をすると両親や長兄と約束をしていたし、今更バンドをやってもうまくいくかどうか判らないし、しかも篠山哲雄とはその時一度も話したことさえ無い。只、アタックというバンドは博多でもトップクラスだったので、その実力は十二分に解ってはいる。電話口で断るのも失礼だと思い、とにかく断る前提だが一度会うことにした。

はっきりとは覚えていないが、当時福岡では流行の先端を行くコーヒーハウスの「アメリカン」で待ち合わせた。店に入っていくとそこには篠山ともう一人、思いがけない男がいた。数週間前セッションしたマコちゃんであった。「あんた、何でここにおると?」、「篠山さんに誘われた」。全く断ることしか考えていなかった筈なのに、やはり俺の気持ちに火がついてしまった。あんたがするんやったら俺もやる、マコちゃんも、あんたがするならやる、じゃあやろうか!と。こうなるとトントン拍子に話が進んでしまう。

ブルースをやろう。篠山もマコちゃんも俺と同じくブルースがやりたかったらしく、それを中心にやっていこうというところまで決まってしまった。こうなると他のメンバーを探さなくてはならない。キーボードはいらん、ベースとドラムだ。そこで俺は提案した。ベースはバイキングでプレイしている博多ナンバーワンのベーシスト浜田がいいと云った。篠山とマコちゃんはバイキングを辞めて迄、俺達のバンドに入るかいな?と云ったが、俺には確信があった。お互いのバンドの仕事が終わると、よく待ち合わせては自分の音楽に対する夢を深夜喫茶で一晩中語り合っていたし、いつか一緒にバンドでプレイしようとも約束していたので浜田は絶対大丈夫と答えた。次はドラムである。石岡(現在の浦田)がいいんじゃないかと自身を持って推薦した。2人も石岡ならドラムの腕前もよう知っとうし、と了解した。この日はこの辺りまでの話で終わったと思う。俺は家に帰った。

道々家族をどう説得するか散々悩み、結局大学を卒業したら家の仕事はする、それまでの一年間はバンドをもう一度やりたい、バンドに専念したいとオフクロに相談した。強烈な反対を喰らうだろうと思っていたら、あんたの好きなようにやりなさいという返事だった。長兄には自分が話をしておくから心配するなという、オフクロの頼もしい言葉までもらって、なんだかすべてのモヤモヤまでどこかに吹き飛んだような爽快な気分になった。オフクロが俺のバンド活動に理解を示してくれたのには理由があり、自分の弟(戦死している)が俺と双子のようにそっくりで、彼は戦争に行く直前まで役者みたいな事をしたり、唄を唄ったりしていたらしい。そんな自分の弟と俺を重ね合わせていた部分もあったように思う。又、この頃はバンドをしていた時のように溌剌とした感じが無く、悶々とした日々を送っている俺の姿を見るに見かねたんだろう。密かに、密かに応援していてくれたと思う(笑)。

数日後再び3人で会い、石岡を誘いに彼の自宅を訪れた。ブルースバンドをやろうと思っとうっちゃばってん、ドラムで入らんや。俺が話を切り出すと、ブルースだけでなくボブ・ディランなんかも演りたいしそれが出来るならいい、という返事だった。みんなボブ・ディランには興味を持っていたし、そういう曲も演ろうと話は盛り上がり、あとは浜田を口説き落とすだけとなった。ここで一つ問題が出てきた。石岡の先生がバイキングの博多ナンバーワンのドラマー、田中さん(通称チャン)だった。そのバイキングから浜田を引き抜く事は石岡にとっては仁義に外れるという意見で、それには俺達も納得した。そこで最終的に浜田が自分からバイキングを辞めたら俺達のバンドに入る、という線で俺は浜田に話を持ちかけた。彼は今すぐには無理だが、今やっている仕事のメドがついて契約が切れたら加入したいという返事だった。俺達はそれまで待つことにし、ベースは色々なヤツに手伝ってもらっていた。

しばらくして篠山が博多駅前にあるダンスホール「ハニービー」のオーディションの話を持ってきた。ベースはとりあえずR&B・ブラックというバンドに在籍していた奈良を引っぱり出してオーディションを受けることにした。オーディションは悲惨な状態で満足にプレイ出来ないままに終わったと思うが、何故か合格。ベーズがいないまま契約を済ませて、とりあえず同じホールでプレイしていたバンドのギターにやらせたり、マコちゃんの友人を使ったり、浜田が加入する迄のつなぎをなんとかやりくりして数ヶ月は過ぎたが、結局ハニービーは経営不振で潰れてしまい、次の仕事を探す事になった。俺は昔のつてを辿ってキース時代に仕事をしていた「慕情」に話を持ちかけた。


都合のいいことに慕情の2階に「ヤングキラー」というディスコを始めるという話で、信用があった俺の話に乗ってオーディション無しで契約してくれることになった。1ケ月後には浜田も加入し、これでバンドの面子は揃った。やはり浜田が入ったことでバンドは大きく前進し、サウンドもみるみる英米のバンドに引けを取らないような音に仕上がっていった。



2★SONHOUSE誕生〜ウッドストックに思いをはせて

バンド結成当時はバンド名をなんと名乗っていたのかはっきり思い出せない。篠山が音頭をとって集まったので彼が以前在籍していたアタックという名を使っていたようにも思うが、記憶がはっきりしない。ともかくヤングキラーに入ったことだし、メンバーも浜田が入って万全になったこともあり新しくバンド名を決めるということで、色々候補が挙がった。そのどれもがあまりパッとせず考えた末、ローリングストーンズがマディ・ウォータースの名曲、ローリングストーンから摂ったように、俺達もブルースに因んだ名前にしようと「ハウリングウルフ」「マ・レイニー」「レッド・ベリー」「マディ・ウォーター」フーチークーチーマンズ」「クローリング・キングスネーク」などと考えた。最終的にブルースの父でもあり、ゴロも良く、ちょっと意味深なイメージもあって「SONHOUSE」を頂いた。

その頃のレパートリーはブルースが殆ど。40分ステージを4、5回するには曲が足らなかったりして同じ曲を何度もするハメになる。いくらなんでもお客相手でそれではあんまりだということで、以前演っていたバンドのレパートリーも多少加え、新たにボブ・ディラン、ジェフ・ベック、レッド・ツェッペリン、ザ・フー、グレイトフル・デッド、ラヴィン・スプーンフル、ジェルロ・タル、モビー・グレープ、エルトン・ジョン、ジャニス・ジョップリン、キンクス、ヤードバーズ等も演った。石岡やマコちゃんはストーンズやビートルズ、ニール・ヤングなども唄っていたが、その辺にはあまり興味がなかった俺は横でタンバリンなんかを叩いてヒマを潰していた。


しかしこの40分4,5回が(土日は7回とか)毎日続くわけだから、ヘヴィを通り越してだんだん辛くなってくる。同じ事ばっかり演っているのでいい加減飽きてくるし、サウンドもマンネリ化してくる。そこでブルースを色々な形にアレンジして、よりヘヴィにしたり、ギター一本でやっているカントリー・ブルースやデルタ・ブルースをレパートリーに取り入れ、自分たちのものにしていく方法を取り始めた。フレッド・マクドゥエル、J.B.レノアー、ジョン・リー・フッカー、ライトニン・ホプキンス。何だか自分たちのオリジナルのような気がしてとても気分がいいし、米英のロックバンドと肩を並べているような気になってどんどん自信が湧いてくる。そうしながらバンドは日々エネルギーを蓄え、これまで見聴きした日本のバンドとはひと味も二味も違う個性的なバンドに仕上がっていく。が、その反面ダンスホールに来る客には全くと言ってよいほどウケなくなってきた。客は減っていく一方で、店の人はいつも苦いカオをしていた。土日はまだしも、平日はもう最悪だった。


又博多ではそれぞれ名の知れたバンドから集まってきたわけだから、みんな我が強くワガママでよくメンバー同士ぶつかりあっていた。ヒドい時には何日も口をきかない状態で、だんだん息苦しくなってきて、リーダーの篠山が間に入り、コーヒーハウスで朝までミーティングをやり、その場をうまく繕っていた。さすがリーダーだった。それでも誰もステージには穴を空けることなくプレイした。レパートリーに多くを取り上げてはいたが、具体的にこんなサウンドを作ろうとか、手本にするバンドやミュージシャンがいるわけでもなく、目標があったり、そのうちなんとかという野望があったわけでも無かった。只演奏することが楽しくて、まあまだ学生という大きな傘の中にいる妙な安心感があったからだろう。

SONHOUSEのバンドサウンドは自然に出来上がっていったような気がする。最近よく思う、バンドサウンドなんて意識して作れるものじゃなく、自然に積み重なって出来るものだと。その当時一番感じていたのは俺達SONHOUSEはストーンズ、ヤードバーズ、アニマルズなんかと同じラインにいるのだということ。勿論ネームバリューや金銭的なハナシでは比べようもないが、生き方や音楽に関する考え方、捉え方は間違いなく同じだと自信があった。その時の只一つの不満は年がら年中ダンスホールでプレイしている事。出来るならそれ以外の場所で思い切り演ってみたい。ウッドストックやその他の海外で行われているようなフェスティバルがもし日本でもあるのなら、1,2曲でもいいから演ってみたい。それはメンバー全員が思っていたことで、そんな話しをしながら盛り上がったりもした。俺も一人ふっと、そういうチャンスに恵まれたら、こんなプレイをしようとかあーだこーだと思い耽っていた。
そんな矢先チャンス到来だ。

当時マコちゃんは九州大学に在籍していて、その日は学祭だったのかな、はっきり覚えていないが、俺達はヤングキラーでステージをこなしていた。最終ステージを終え、さーこれからどうしようかー、なんて言っている時にマコちゃんが、九大で野外コンサートがありようけん、出れるかどうか分からんばってん、観に行ってみらんね!と言い出した。交渉次第では出演出来るかも知れない。石岡の車にギターとスネアを積んで早速駆けつけてみた。夜12時を過ぎていてもう終わっとうかも知れん、と不安ながらもワクワクして箱崎の九大に向かった。会場に近づくとギュイーンとギターの音がした。


ありよう、ありよう!マコちゃんの友達が実行委員をやっていたのかどうかは不明だが、とにかく飛び入りOKとなった(今では考えられない程自由だった)。ステージまでの待ち時間、身体中の血が暴れ回り、アドレナリンが吹き出し、じっとしていられないくらい興奮していた。ヤングキラーで丸一日ライブをしてきたとは思えない程エネルギッシュだった。一曲目はなんだったか、その時のリストは残念ながら覚えていないが、ステージに上がった時はダンスホールでは味わえない興奮と、まるでウッドストックのステージにいるような景色が真夜中の野外に広がっていて、本当にゾクゾクしたのをよく覚えている。演奏は3,40分くらいだったと思うがまるで天に昇ったような気分でいつもの何倍ものデカイ音で演った。客も初めて観るバンドなのにギンギンに盛り上がっていた、それぞれ自由に、すごく開放的だった。これまでずっと夢見ていたロックコンサート。ステージを降りた後のメンバーも今まで見た事のない様な素晴らしい、すがすがしい、そして自信に満ちた顔をしていた。そして俺達もいつかはダンスホールを抜け出して、自分たちの好きな曲をこういった場所で思い切りプレイしたいと願っていた。

とはいうものの毎日毎日、ダンスホールで演る物足りなさをより一層感じながらもプレイは続けていた。ロックファンじゃないただ女目当ての客なんかの前でプレイする空しさ、そして誰も聴いていないのにひたすらプレイし続けなければならない辛さ。悶々としながらもレパートリーを増やしていき、とにかく自分達だけの為にやっていた。
ところで俺達がヤングキラーでプレイしている時チューリップがメンバー全員で来ていたことがあった。彼らが東京に出るという話は風の噂で知っていたし、まあ俺達とは違う世界の奴らだと思っていたので別に話そうとか、東京でもがんばりんしゃいなんてことも思わなかった。なんで彼らを知っていたのかな・・・、多分石岡が知っていたんだと思う。まあ、ゆっくり聴いて行きやい、なんて高飛車でいたのも事実である。

そうこう日々は過ぎていき、数ヶ月後とうとうヤングキラーは俺達のお陰で閉店することになる。ここでのステージも最後という日、篠山の兄貴が記念に録音してやろうとテープレコーダーを持ち込んで、ホールにマイクを立て2ステージ分位を録音してくれた。この音源はもちろん世に出ていないが、自分で言うのも何だが滅茶苦茶いいプレイが聴ける。SONHOUSEがオリジナルをやるもっともっと前のものだからすべてカヴァー曲ばかり。ブルースナンバーの他、ボブ・ディラン、ビッグブラザー&ホールディングカンパニー、ジェフ・ベック・グループ、レッド・ツェッペリンなどの曲が入っている。PAシステムなど無かった時代で自前のアンプ、ドラムは生音、ヴォーカルは俺が持っていたエーストーンのヴォーカルアンプにゼンハイザーのマイクを使っていた。が、とにかくいい音である。


今では英語の歌詞は苦手というか、どうも日本語に慣れてうまく唄えないんだけど、当時はとにかくコピーから始めて少しでもオリジナルに近づこうという考え方が当たり前だったせいか、ボブ・ディランの曲ならディランそっくりにやろうと努力した姿が節々に伺える。こうして今聴いてみるとなかなかイイ線いっているような気もするが、聴き比べてしまうとあんまり似ていない・・・。しかしバックのサウンドはいい味を出しているし、レベルも高い。フィーリングも素晴らしい。ホント、皆さんにも聴かせてあげたいくらいである。

思えば白人黒人日本人合わせて、いろんな数え切れない程のヴォーカリストの曲をコピーしたのが(真剣にチャレンジしたのは数人だけど)現在の日本語の歌詞を唄うのに随分と役に立っている。日本語で唄い始めた頃は、英語のクセがすごく邪魔になって苦労したが、最近になってやっとものに出来るようになってきた。上手下手は別にして俺のスタイルが他人と多少違う部分があるとしたら、この頃必死でマスターしたものが間違いなく財産となって、ふとしたところにその努力が見えるのではないかと思う。ほんの些細な事だったりするので人にはよく分からないし、俺だけの事かも知れないが、それは凄く大切なことだと考えている。口ではこうだと教えることが出来ない、かなり感覚的なものなのだろう。

ともあれ30年以上も昔の音源がこうしたクリアーな形で残っているというのは奇跡に近いものがあるし、ずっとこれを管理していた篠山に感謝しなければならない。ありがとう。
形としてはラフでレコーディングというにはお粗末だが、ある意味では始めてのレコーディング経験といっていいだろう。


3★ダンスホールバンドにさよなら〜サンハウスコンサート

ヤングキラーでの仕事も終わり、さあこれからどうしようかと思案に暮れていた。といってもそれ程深刻に悩んでいたわけでもないが、篠山、浦田、浜田の3人は音楽を仕事にしていたので、俺とマコちゃんのように学生気分ではいられないだろう。ダンスホールに舞い戻るのには抵抗があったが、結局バンドを続ける為にはそれも頭に入れておこうという結論が出た。ダンスホール「赤と黒」がバンドを探しているという話を聞きつけ、オーディションに向かった。しかし過去に2軒も閉店に追い込んでしまったイメージや噂が広がっており、加えてレパートリーもダンスミュージックにはほど遠いものだった。オーディションは落ちてしまった。

こうなりゃもうライブバンドとしてやっていくか。もともとそれが夢だったし、なんの計画も無いがその気になりかけていた時、佐世保の外国人専用のクラブ「ジクザグ」からプレイしてくれないかと依頼が舞い込んできた。部屋付きで一人月7,8万位だったと思う。専属はなぁ・・・、と難色を示したが、外国人相手なら3ヶ月程度やってみるのもいいだろうと契約。前もって俺達はあまり一般ウケするような曲はやっていないし、希望に添えるかわからないし、責任は持てないと言っていたので、オーナーもそこのところは全くうるさく言わなかったし、俺達も気楽にやれた。

しかし始まってみればやはり毎日同じ事の繰り返し、だんだんとだらけた生活に染まり始め、こういったホール専属バンドには限界があることを感じていた。もっともっと自分たちをアピール出来る場所が他にあるのではないかと本気で考え始めていたし、真剣に悩んでいたのもこの頃だったような気がする。

とにかく外国の音楽シーンがとても羨ましくてしょうがなかった。金になんてならなくていいから、自分たちの好きな音楽を腹一杯やりたい!その思いがとうとう頂点に達して、ジグザグとの契約が切れるのと同時に、福岡へ戻り、とにかくライブバンドになろうと固く決意。単発で入ってくる仕事以外はいっさい目をくれることなくやっていこうとメンバーの心は一致した。
と同時に大学卒業の日が刻々と近づき、このままではバンドを辞めざるを得ない。俺は思い悩んだ末に大学を留年することを思いついた。当然親や長兄の攻撃は激しく、事あるごとに文句を言われたがなんとかかわしつつ、色々なバイトをしながら、待っても待っても入ってこないコンサートの仕事をガマン強く待って、それでもどうにもならないことに痺れを切らし、こうなったら自分たちでライブをやるしかないと、客が来るかどうかも分からないのにSONHOUSEのコンサートを企画することにした。そんな俺達に賛同してくれる数人の友人が損得抜きの手弁当で、まるで自分のことのように外国のコンサートを手本に、右も左も分からないがとにかくスタートすることになった。

当時の福岡のミュージックシーンはすでにプロデビューを果たしていたチューリップを筆頭にフォーク、フォーク、又フォーク。フォーク一色で天神にあったフォーク喫茶「照和」には若者達が殺到し、街にはフォークギターを抱えたヤツがわんさか歩いていた。中にはエセフォークシンガーまで現れる始末だった。俺達はステージ上で無駄口叩いて少女趣味の、ジンマシンが出そうな歌を唄う奴らに対抗する気分にもなれず、まあ好きにやってくれってな感じで受け止めていたし、俺達の世界とは別物だとはなから決めつけていた。只、奴らが大した音楽もやっていないのに、女の子にキャーキャー言われるのを見ていると、凄く腹立だしくなったり、少ーしだけヤキモチを焼いてみたり。とにかく俺達なんてその対象にもならず、誰一人振り返る事もなく完全に蚊帳の外だった。それについて不安を感じる事は全く無かったし、チャンスさえあれば振り向かせてみせるだけの自信は多少あったが、いづれにしても俺達が入り込めるようなスキは全く無かった。

そんな俺達が足繁く通う店というか溜まり場がいくつかあった。一つは福ビルの地下にあったハンバーガーショップ「アウトリガー」。まともに注文もせず、注文しても金も払わず、一日中入り浸っていた。昼食時や夜早い時間はOLで一杯になっていたので、その時間は遠慮してあとはほとんど俺達の溜まり場だった。オーナーの綿織さん夫婦がとてもいい人だったのでかなりそれに甘えていたというのがホントのところ。もう一つ須崎にあったロックを専門に聴かせる店「POWERHOUSE」。ここは場所も天神からはずれていたし、内装もうす暗く、ちょっとアブナイ雰囲気だったので照和などに出入りするような人種には敬遠されていたが、ロック好きの人間や自由人というかヒッピー風というか流れ者達にとってはとても居心地のいい場所であった。当時の学生が自分達だけで手作りのいろんな事をやっていた最もたるもので、学生運動をやってる奴らや、芸術家の溜まり場でもあった。こういうムードは照和には全く無かった。このPOWERHOUSEも初めのうちは俺達も入り込めない雰囲気があったがオーナーの田原と話をするようになって、凄くトゲのある男であったが、なんとなくウマが合うようになり、夜はほとんど入り浸りの生活をするようになった。そうこうするうちにいろんな奴らと知り合い、今度SONHOUSEのコンサートをするから観に来てくれと誘ったり、逆に手伝わせてくれと行って来るヤツもいて、なんとか手探りシロウト集団の記念すべき第一回目のSONHOUSEのコンサートをやることになる。

タイトル、「SONRISE」。ロックを通じて知り合い、いつも連んでいた大神、甲斐田と一緒に金も無く手書きでポスターを作り、明治生命ホールを借りて、街でチラシを撒いたり、ヤマハの店員に頼んでポスターを貼らしてもらい、一人でも多くのお客さんに来てもらおうと必死で頑張った。入場料は確か300円か400円程だったと思う。当時甲斐田が仲が良かったこともあって武田鉄矢率いる海援隊に前座をやってもらったお陰で、客も満員になった。一曲ヤングブラッドというアメリカのバンドのナンバー「ゲット・トゥゲザー」で海援隊のバックをやった記憶がある。全体的にどんな雰囲気のコンサートになったのかはもう覚えていないが、500円のギャラが出て赤字にだけはならなかったのは確かだ。一人頭500円のギャラなんて雀の涙みたいなもんだったけれど、すべて自分達で企画してやった充実感というか、俺達にもやれば出来ると自信が湧いてきてとても良い経験になったような気がする。又、ほんのわずかではあったがコンサートの出演依頼もくるようになり少し目の前が開けた気がした。しかし当時はフリーコンサートが当たり前でその後ギャラなんて貰った覚えがない。おかげでいつもビンボー。ライブは盛り上がるのにノーギャラ。そんな日が続いて、結局暇な時はバイトで稼ぎ、レコードを買うというそれの繰り返しだった。まだまだフォーク全盛の時代、奴らのクリーンなファッションとは違っていつも汚らしいかっこうをしている俺達はほんの一握りのファンしかおらず、そういった面では明日の事なんて全く分からない暗闇の時代だった。とにかく音楽が好きだ、というそれだけが支えだった。

そうこうするうちに福岡の夢本舗というフォークの呼び屋(現在のBEEの前身のようなもの)と知り合い、100%自分達の考えと一致するわけではなかったが、彼らが企画したイベント、「夢でよかったフォーク&ロックコンサート」に出演するチャンスをもらった。当時としてはかなりの大イベントで、東京のフォークシンガー、ロックバンドの有名どころが総出演するようなものだったので、俺達の気持ちも自然とハイになって東京モンには負けない位の激しいライブを展開した。その頃から夢本舗も俺達の存在を意識しはじめたようだった。その後、九大の学館で行われる99円コンサートや、フォーク系のコンサートに出演しているうちに、いつの間にかリハーサル無しでライブの日だけ集まって演奏してご苦労さん!ってことがお決まりになってきた。やる曲はいつも同じ、そんないい加減なライブを楽しんでいるヤツもいたが、やってるほうはだんだんシラけてくる。あの夜中の九大の野外イベントに飛び入りしてブッ放したようなスリル感もゾクゾクする気持もなくなってきて、まず最初にベースの浜田が抜けたいと言い出してきた。マコちゃんの部屋でミーティングをしたものの、もうどうにもならない所まで来てしまっていた。その後いくつかのライブを同じ様なスタイルでやったものの、これといった進歩もなく同じ事の繰り返し。ブルースバンドとして出発したSONHOUSEではあったがなんか物足りない。個人的にちょっと嫌気がさしてきたのもあって、ブルースの壁にブチ当たった。このままじゃどうしようもないし、解散の二文字が出るまでになってしまった。皆の意見も同じようだったが、これでは何か淋しい。そんな空気の中で、誰が言い出したか、これ迄いろんな音楽をやってきたが、考えてみればSONHOUSEのオリジナルと言えるモノをやったことが無かった。解散はいつでも出来る、どうせならオリジナルを作ってみて、演ってみて、それでもどうにもならないのならその時はすっきり解散しよう。


オリジナルの作品を作る、とは言えどんな詩を書いたらいいのか全く分からない。とりあえず出来たものはこれ迄バカにしてきたフォーク系の詩とあんまり変わらない、毒にも薬にもならないようなものばかり。そこで、日本のフォークやロックの歌詞をレコード屋に頼んでコピーを貰い色々調べて、その中には無い世界の詩を作ろうと考えた。客に受け入れられるかどうかは別にして、とにかく個性的で類のないモノ、そこで思いついたのがSONHOUSEがイヤになる程演ってきたブルースの詩に目を付けた。マコちゃんがどう思うか、俺はセクシーなものを中心にいくつか書いて手渡した。今でもはっきり覚えているが、手渡す時凄く恥ずかしかった。自信も無いし、これがいいモノだという根拠も何も無かったから。まあ、ゴミ箱行きは覚悟していたのだが・・・。

しばらくしてマコちゃんは作ってきた、キングスネークブルース。


4★SONHOUSEオリジナル第一弾「へびのうた」

それ程の時間はかからなかったと思う、実際のところは覚えてないが。マコちゃんがニコニコしながらリハーサルにやって来た。出来たよ、「へびのうた」。コードはこげん、リズムはこげな感じ、と言いながらギターを弾き始めた。ザ・フーやストーンズ、キンクスっぽいイメージのバタ臭い曲だった。うん、なかなかカッコいいね、初めてのオリジナルにしては上出来、いや言うこと無しって感じだった。こうしてみれば俺が何も考えず脳天気に書いた幼稚な詩も、メロディーやリズムがついて一つの曲になるとそれ程おかしくない。これまで日本にあった耳当たりのいい詩や、文学的な詩とは違って不思議な感じがしないでもなかったが、曲も詩も個性的ではあった。何度と無くマコちゃんが唄っているのを聴いて、俺も口ずさんでみたりもした。しかしいざ唄うとなると照れくさい。黙って聴いていると、マコちゃんが大体こげな風やけん、柴山さん唄うてみらんね。マイクの前に立つと何故か緊張して、頭の中からメロディーが飛んでいってしまう。マコちゃんにここはこう、ここはこげな感じとアドバイスしてもらいながら少しずつ仕上がっていく。何かカッコイイ気がする、反面これまであまり日本語で唄ったことがなく、ここ数年洋楽ばかりだった俺にはあまりにも違う日本語と英語の差に相当戸惑っていたが、それでも自分たちの作品という事への喜びや感動で身も心も溢れ、まあ大概のことは許せたような気がした。こうなれば一日も早く人前で演奏したい、みんなに聴かせてビックリさせてみたい。今度のライブでは絶対「へびのうた」しようね、といいながら何度も練習に励んだ。

そして六本松にある九州大学学館でオリジナルを発表する時がやってきた。俺達はフレッド・マクドゥエルの61ハイウェイ、マディ・ウォータースのアイム・レディ、ローリング・ストーン、メイク・ラヴ・トゥー・ユー、ソニー・ボーイ・ウィリアムソンのブリング・イット・オン・ホーム、エルモア・ジェームスのアイ・キャント・ホールド・アウト、サン・イズ・サンシャイン、ロバート・ロックウッドのテイク・ア・リトル・ウォーク・ウィズ・ミー(後にブルース・ライオンのレパートリーのカモン・オン・ベイビーの元になった曲。ブルース・ライオンではZZトップ風に演っていたが、SONHOUSEはオリジナルに忠実に演っていた)等と「へびのうた」を中間頃に挟んで演ってみた。今冷静に振り返ってみると結果は散々だったろう、演奏に関しては問題は無かったと思うが、俺はひどかったと思う。メロディーは忘れるし、歌詞は出てこないし、前を向いて自信たっぷりに唄えなかったような記憶がある。客の反応はブルースナンバーを中心に演っていたお陰でガックリされることもなく、相変わらす盛り上がっていた。しかし一部にはとうとう SONHOUSEも日本語を演るようになった。コマーシャリズムに走りよう、客に媚びを売るようになったら終わりだ、とかいう奴もいた。


そんな中俺達は一つの壁を破った喜びを感じ、その日の「へびのうた」の出来が良かったかどうかよりもプレイした感動が大きかったのだろう、これに味をしめてか自分たちの作品をもっともっと沢山作って、みんなの前でアピールしたいという気持が日々高まり、曲作りに集中した。以外にも作品はポンポン出来た。ひと月に十数曲出来た気がする。「へびのうた」を筆頭に、「街」、「バッドラック・ブルース」、「ぬすっと」、「ミルク飲み人形」、「レモンティー」、「雨」、マコちゃん作詞作曲で、「つらい浮き世」、「死にかけた君」、「400円のブルース」、「なまずの唄」、「だんだん」等がある。「宛名のない手紙」もこの頃だった、曲も詩も好きなのにリズムがゲットバックみたいな雰囲気だったので、ビートルズ嫌いだった俺は何度か演ったものの、当時はなるべく避けるようにしていた。


そんな中以前SONHOUSEコンサートを企画した友人、大神、甲斐田を中心にもう一度コンサートを企画しようということになった。場所は同じ明治生命ホールに決定。が、前回は海援隊にゲストで出てもらったりして客はまずまず入ったが今回はワンマン、おまけにオリジナルを演るという事で、不安80、期待20、やりがいだけ200%位あった。ポスターを作り、色々な店に貼ってもらい、夜中は車でバケツ一杯の糊を使って街中至る所に貼って廻った。昼は天神でビラ撒き、チケットは手売りと僅かながらプレイガイドに置かせて貰って、兎に角出来ることはすべてやった。後はSONHOUSE の雄志を披露するだけ。客がどれだけ来てくれるか不安もあったが、なるべくこれからのSONHOUSEを明確に打ち出そうと、コンサートは2部形式にした。1部でオリジナル、2部でこれまでやって来たブルースやロックンロールを演るというスタイル(1部のオリジナルでコケても2部でなんとかしようというセコい考え)だった。


結果はものの見事に的中、悪い方に。1部は全く受け入れられず、中には席を立つ者もいた。やっとのこと2部で何とか盛り返したが、これらのオリジナルに、以前のSONHOUSEファンは愛想を尽かし、かなりのファンが離れていった。これまで観に来る事が無かったほんの一握りのファンがついたのがとりあえずの救いだったが。しかしそういった事は別にしても悪いなりにオリジナルを演れた事、自分たちの曲があるという喜びが俺達の気持を前向きに駆り立てていった。それに俺は大半のファンが離れていったことにガックリくるというよりは、俺達がいい作品を作っていいプレイをしていれば彼らも絶対戻ってくるという自信があった。だからコンサート自体は成功とは言い難いものの、ある面では大成功だったのかも知れない。

この日はたまたまコンサートをテープレコーダーで録音しておいたので、改めてその音を聴くことが出来た。聴いた瞬間ゾッとした。これが俺?俺の唄?俺の声?それはもの凄いショックで、今までの曲は問題無かったが、オリジナルは・・・。
演奏は良かったが唄は最悪。それまでヴォーカリストとしての評価も受けていたし、多少の自信もあったがすべて崩れ墜ちてしまった。日本語で唄うことの難しさを身にしみて感じた。こういっては何だけど、チューリップや海援隊に代表される「照和」のフォーク連中のことを馬鹿にしていたが、精神的意識は別にしても唄に関しては奴らよりも劣っている。
どうすればいのかいくら考えても解らないまま、何度も聴き返した。そのうち唄の中にオドオドした自信も何も無い俺がいるのに気がついた。言葉も日本語なのに何を言っているのか解らない、これじゃオリジナルを演っている意味が無い。この頃から、唄に対して、ステージに立つということに対して根本から考え直さないと、この先いくら作品を作り唄っても意味が無いと思うようになり始めた。


八方塞がりの状態のまま、一体どうすれば解決するのかさっぱり解らないまま、時間だけ通り過ぎていった。とにかく自分の唄がいつでも聴き返せるように、ヤマハで使い古しの業務用のティアックのカセットデッキを譲って貰い、オープンリールからカセットテープへダビングして、ヒマさえあれば何度も何度も聴いた。一つの救いはSONHOUSEのオリジナルにはこれまでの日本のフォークやロックには無かった曲と詩、そしてバンドサウンドが知らないうちに身に付き、それが少しずつ芽生えかけていたということである。とにかく街中どこに行ってもフォークソングの花盛り、オーディションやコンテストも盛んに行われていた。俺達が入り込むスキなんてどこにもなかったけど、そういった身を流すような気分はさらさら無かった。そんなサークル的なノリや、仕掛けられたワナにはまり、身動きできなくなったりやりたいことも出来なくなるようなことだけは避けたかった。反対に数人の音楽関係者や放送局の人達の手助けには今もとても感謝している。
これといった俺の存在感が見つからないまま何度かライブを体験するうちに、ある日突然空から何かが舞い降りてきたような閃きを感じた。


SONHOUSEを結成する話の中で一部俺の記憶違いがあったんで訂正させてもらいます。篠山が俺をバンドに誘ったのではなく、先にマコちゃんに話を持っていってその時マコちゃんが少し前に知り合っていた俺を篠山に紹介したというのが事実のようです。


そこんところは記憶がボヤけて思い出せんけど、確かにその頃篠山の存在は知ってはいたけど話したことは無かったし、考えてみたらこれで辻褄が合う。篠山さん、ご指摘ありがとう!


                      SONHOUSE  パワーハウスにて


5★SONHOUSEの柴山俊之から菊へ、スポーツカーから重戦車へ

世の中はフォークブームとアイドルが入り乱れて俺達ロックバンドは全くと言って良いほど相手にもされていなかった、とは言っても肩身の狭い思いをしていたわけでもない。好きな音楽をやる事が一番の目的だったし、人にああしろこうしろと言われるのもいやだったので、マイペースで曲を作りそれ程多くはないライブをこなし、適当にアルバイトをしながらレコード代を稼ぎ、まだ大学生の身分でもあったのでブラブラしていた。

そういえばバイトで思い出したけど、金になるならと結構何でもした。手軽なところでは肉体労働だったが、キツい割にはあまり金にならない。屠殺されたブタを運ぶ仕事は金にはなったが、臭いと光景に耐えきれず直ぐに辞めた。一番金になったのは冷凍クジラの運搬作業。15〜20分冷凍庫に入って1時間の休みで日給2万円。これはもう時効だが、クジラの一番いい肉、木箱に入った高級尾の身2,3箱をこっそり持ち出して、あらかじめ待たせておいた友人の車に積み込み、中洲の料亭に流していた。厚みは20p、縦横50p位の大きな肉なので、1箱5万位で売れた。ま、これはりっぱな犯罪なので4,5回やったけどクセになるとマズイので辞めたが、運搬作業はなんやかんやで1年位は行ったかな。内部はマイナス40度とかの世界で、夏でもセーターを何枚も重ね、ぶ厚い靴下を重ね、股引をはいたり大変だった。一番辛かったのは夏にしもやけになること、これがとても辛かったね。それもこれもレコードが欲しくて、稼いだ殆どの金はレコードにつぎ込んだ。この頃は本もよく読んだな、セリーヌの「夜の果ての旅」「なしくずしの死」、ケストナーの「人生処方箋」、ランボーやボードレール、ウィリアム・ブレイクとか。ボードレールは俺の好みに合っていた。まあ、もともと音楽好きで、本を読んだり映画を観たりした上に、ドアーズのジム・モリソンの影響もあってちょっと頭でっかちな部分もあった。

話が横道に逸れたので元に戻そう。

ライブでオリジナルを演っても思ったようにプレイする側の気持ちが伝わらない、かといってフォークの連中みたいに喋りを交えて場をアットホームな雰囲気にするようなキャラクターでもないし、そんな連中はその時代山ほどいたので、あえてポーカーフェイスを装ってみたり、クールな振りをしてみたり、色々やってみたが今ひとつインパクトがない。そこでオリジナルの何曲かにその曲にだけ使う振り付けを考えることにした。曲は自分自身をアピールするようなものがいい。そこで目に付けたのが「へびのうた」。元々ブルースの詩からヒントを得て作ったものだったから、性的イメージを高めさせる為に、間奏でマイクスタンドを使う事を思いついた。

次のライブで試してみたが、自身があったわけでもなく、なかば思いつきでやったものだから何か照れてしまい、中途半端になってしまった。こんな事したら客にもメンバーにも笑われるんじゃないかとか、馬鹿と思われるんじゃないかとか変な邪念が災いして、堂々とこれでどうだっ!っていう見栄を張ることができなかった。さてどうすればいいのか、悩んだ末に出た答えは芸名をつけて、違う自分を作りあげる。よくある外人かぶれなジョンとかトニーとかではなく、それでいて格好いいもの、強烈なインパクトがあるもの・・・。そこで思い出したのが白波五人男、弁天小僧菊之助、男でありながら女の姿をしたドロボーの話。菊之助にしようか菊次にしようか迷ったあげく、只の‘菊’という名にした。他に色々試してみたいことはあったが、とりあえず化粧をすることにした。ステージ衣装は女性用のジャケットやブラウスでまかなった。中には嫌がるメンバーもいた、まだまだ完璧にこなせてはいなかった。

いくつかのライブを経て夢本舗が手伝ってくれたSONHOUSE SHOWを明治生命ホールでやることになり、オリジナルを中心にロックンロールメドレーやブルースを挟んだりしながらの2時間半程のライブだった。これは結構な客が集まり、昔のブルースファンもちらりほらり帰ってきた。その日はドラム、ベース、二人のギターの順にステージに上がり、SONHOUSE SHOWの唄が始まる、そこで俺が箱の中から飛び出してくる仕掛けで、幼稚な感じもするがその時にしてみれば精一杯のアイデアを出して考えたステージセットでもあった。ロックンロールメドレーの部分もチャック・ベリーのメンフィス・テネシーやヒッピ・ヒッピ・シェイク、キューティパイ、ローディー・ミス・クローディなどの新しいレパートリーを加えかなりサービス満点であった。(この日の音源は現在も残っており、なかなか面白いライブショウになっている)。

少しづつSONHOUSEの名も知られるようになり、街を歩いていてもたま〜にではあるが声をかけられるようになってきた。そんな頃、ドラムの浦田がバンドを辞めたいと言いだした。ライブの仕事が少しずつ入ってくるようにはなったものの、金にはならないし、浦田としては展望がなく自分なりに見切りをつけたかったのだろう。ある日突然俺の家に来て聞かされた時は多少面食らったが意志が固そうなので俺は個人的にそれを受け入れることにした。ただみんなにその旨を話すのがとても辛くて練習に行くのが憂鬱だった。


翌日練習場に行くと既にドラムセットは無く、先に来ていたメンバーが不思議な顔をしていた。俺は、昨日浦田が家に来てバンドを辞めたいと言った、説得はしたもののその意志の堅さにOKを出したとみんなに伝えた。みんなはもう一度説得に行こうと言う、俺としてはもう次の事を考えていたので、もういいんじゃないかと言ってみたが、みんな諦めきれず結局浦田の家に行くことにした。浦田にもう一度頑張ろうと説得を試みたが、俺は只其の話を聞くだけでずっと黙っていた。数時間かの説得も報われずメンバーも諦めたようだった。


帰り道大濠公園に寄って今後の話をした、次のドラムはどうする?俺は前々から仲も良く気に入っていたブロークダウンエンジンの坂田はどうだろうと提案した、多少の不安はあったが。浦田と坂田とではテクニックに差があったし、下手するとバンドのレベルが下がることにもなる。しかし坂田のパワーと重さがとても魅力で、前から一緒にやりたいと思っていたほど惚れ込んでいたのだ。ブロークダウンエンジンはベースが抜けて活動停止状態でもあったから俺が説得してみる、と取りあえずその日はみんな家に帰った。その夜坂田に電話を入れSONHOUSEに入らんや、というと二つ返事でOKだった。ブロークダウンの津和野にも連絡し翌日会って、浦田が抜けたので坂田が欲しいと伝えると津和野は本人が良ければかまわないと言った。こうして晴れて坂田はドラムとしてSONHOUSEに加入することになる。


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