第4回

1★重戦車は走り始めた

みんなの不安を解消させるにはとりあえずリハーサルで証明するしかなかった。個人的にはそれなりにうまくいく自信はあったし、頭の中でこの曲はこうなるだろうとかこれはどうだろうとか色々考えてはワクワクしていた。メンバーが集まりリハーサルを始めた。どっちみち3,4回はやらないとある程度の答えは出ないだろうし、メンバーも納得するにはそれなりの時間はかかるだろう、とにかくあいさつや雑談はそこそこにしてまず音を出してみる事にした。

最初にどの曲をやったかはもう覚えていないが、ドラムの音が入ったとたんにこれ迄のSONHOUSEのサウンドとは全く違った音が出てきた。185pの身体から叩き出すドラムはまさしく俺の想像していた通りの重戦車級だった。もちろん浦田が持っていたスポーツカータイプのドラムサウンドも悪くなかったし見事ではあったが、これから目指すSONHOUSEのサウンドはシンプルでスピード感があってそれでいてヘヴィというのが目標だったから、その一瞬で俺は嬉しくなり、メンバーの顔を見るとはっきりいって目の色が変わっていた。もちろん坂田は浦田の後釜としか思ってなかったろうし、自分がその場でサウンドを大幅に変えてしまうなんて思ってもいなかっただろう。


1曲2曲と進むにつれ、今初めて演ったとは思えない程リラックスしたムードになっていった。しかしこれはあくまでもリハーサル、いざ本番となるとどうだろう。そのプレッシャーは意外にも重く、最初のステージはリラックス出来る小さなスペースで、と考えていたのだが、坂田が加入して最初のライブは久留米の石橋文化センターという広い会場でのものだった。まあどうせやるのならどこでも一緒、デカイ会場の方がやりがいもあるさ、とか勝手になことを言いながらも心の奥では不安が渦巻いていた。

ライブの対バンは「田舎者」、後のドリル、現在ソロで活動して絵も描いている山部善次郎こと山善が在籍していたグループである。(因みにZi:LiE-YAのトレードマークでもあるガマのイラストは山善に描いてもらったもの)「田舎者」はローリングストーンズにフェイセズをミックスしたようなちょっと泥臭いイカしたロックンロールバンドだった。当時の博多では結構人気があって彼らはフォークでも有名な照和にも出入りしていた。いわばSONHOUSEのライバルでもあったわけで、少なからず俺はブロークダウンエンジンと共に意識していたバンドでもあった。当日の入りは博多方面から来た客も合わせてまあまあの入りでカッコ悪いステージは出来ないなア〜と思っているうちにその時がやってきた。


俺はドキドキしていた。メンバーの顔をそれとなく伺うとみな緊張している様子だった。それなのに張本人の坂田は我関せずってな顔をして堂々としていた。俺はこいつは図体がデカイぶん肝が据わっているのかなア〜とか、いやただニブいだけかとかそんなことを考えながら出番を待っていた。


俺達はステージに上がった。客は盛り上がる。アドレナリンが駆けめぐり、身体中が暴れ回る、さっきとは別人の俺がいる。坂田、今日はお前のSONHOUSE初舞台だ、思いっきり行こぜっ!!!てな感じだった。


当時からオープニングに使っていた「キングスネークブルース」(少し前までの「へびのうた」)。篠山のギターが暗闇の中で炸裂し、照明がパーっとついた。ドラム、ベース、そしてマコちゃんのギターがグワーンとはいってくる。なんか今までに無かったような凄い音だ。リハーサルの時に体験したドラムの数倍、いや数十倍は越えるパワー、まるでブラックサバスのドラム、ビル・ウォードを彷彿させる。ヘヴィでワイルドな坂田のドラムは間違いなくSONHOUSEのサウンドをもう一つ前へ押し出してくれた。もちろん以前のサウンドも素晴らしいものだったが、ちょうどヤードバーズからレッド・ツェッペリンに移行したようなこのNEW SONHOUSEのうねりまくるヘヴィなサウンドはブルースとロックンロールをベースにして作り上げた俺達が追い求めていた音だった。


ライブが終わった後、ファンがワーっと集まってきた。中でも坂田へのアタックには注目すべきものがあった。ヘヴィなドラムはもとより、彼のルックスがウケたのだろう(今ではすっかりいいオヤジになってしまったが、当時は歌手の小林麻美に似た美形だった)。そのモテっぷりは大いに俺に刺激を与え、益々意欲を与えてくれた。

このあたりから少しずつ大きな仕事が入ってくるようになった。その殆どが東京からやってくるビッグネームの前座やジョイントで、俺達は出演出来るものはすべて断らず、例えフォークばかりのイベントでも平然とステージをやってのけた。最近のイベントではまず考えられないことだけど、前座が本命を喰ってしまうということがままあったし、それが一つのエネルギーとしてやりがいが一層大きくなり、名前が東京方面に届くという不思議な現象が起こったりもした。

ある時フォークのスーパースターがこぞって出演する大イベントが福岡のスポーツセンターで開かれることになった。主催が夢本舗のイベントだったので、客入れをしている間にライブを演ってみないかと話があった。プライドとか、さすがにそれはカッコ悪いよと二の足を踏んでいたが、まあポスターに名前が載るわけでもなし、出演者は井上陽水、チューリップ、吉田拓郎、泉谷しげる、友部正人、高田渡とそうそうたるメンバーだったし、なんせ会場の入りは超満員というのは非常に魅力で、演奏時間も1時間近くやれると聞いて、ちょっと恥ずかしいがやってみることにした。

客入りの間といっても一切手抜きせず、黙々とプレイし続けた。始めは客もうろうろしているだけで、誰も注目していなかったが、ポツポツと立ち止まって演奏を聴きだした。まあその殆どがロックとは無縁の客ばかりだったので、正直手応えがビンビン伝わってくる感じではなかったが、その後急激に名前が売れだし、ファンが増えはじめた。本当に不思議なもので、照和等に出入りしていた10代の若い子が恐る恐るSONHOUSEに興味を持ち始めたようである。全くチャンスなんてどこに転がっているか分からない、問題はこっちサイドの心掛けであり、やる気しかないと思うようになった。こうして坂田を加えて重戦車は走り始めたのである。

 

2★東京ライブ

この頃になるとレコーディングの話しもチラホラと耳にするようになってきた。が、俺はそういったことはまだ別世界のような感じがして、暇なときは相変わらずアウトリガーやパワーハウスに入り浸っていた。

その頃のファッションはステージ衣装とまではいかないが、それに匹敵する格好を普段からしていた。サテンやラメで作られたブラウスやジャケット、パンツ、ブルゾン、コート。それも原色のド派手なやつ。当時はギスギスに痩せていて、体重は45キロ程しかなかったからすべて女モノでまかなえた。スカート以外はほとんど着こなし、着るものはいくらでも手に入った。時には古着の長襦袢を素肌にはおったままで、眉毛を剃った顔に化粧をし、髪は腰まである金髪姿で街を歩いた。

道行く人はその得体の知れない姿にチンドン屋か気が触れた奴だと思ったに違いない、じっと見るのは恐ろしいのでチラチラと横目で半分軽蔑の視線を投げつけてきた。たまに婆さんなんかに「あんた、珍しい服着とうーねぇ〜」とか「なかなか粋な服着とんしゃーねぇ〜」なんて話しかけられたりもしたが、大概は親の顔が見たいだの、気色が悪いだの言いたい放題で、昔の知り合いなども奴は「オカマ」になったらしいとか、変な薬の飲み過ぎで頭がイカれたのだとか、いろんな話しを風の便りで耳にした。しかしお陰様で過去の悪い仲間は完璧に近づいてこなくなったので、とても有り難かったし、そういった勝手に一人歩きした俺のイメージや噂を結構楽しんでいたように思う。

SONHOUSEの名前がじわじわ知られはじめ人気が上がっていくにつれて、俺の噂話しなどもアレコレ信じられないような尾ヒレが付いて益々勝手にイメージが作り上げられていったのはこの頃あたりからである。菊という名前も福岡周辺では定着し、一風変わった存在になってゆく。坂田もあっと言う間にメンバーとなじんだ。ところで彼の風貌からしても「坂田」というのはあまりにも普通過ぎるというわけで、ニックネームを付けたらどうかと提案した。本人は乗り気で、昔のことなのでいくつかの呼び名がリストアップされたはずだが、残念ながら覚えていない。とにかくどっしりしたイメージと半分はいい加減なノリで「鬼平」ということに決定、当時鬼平犯科帳が始まったばかりなので、そんな名前が出たのかも知れない。


その「鬼平」もアッと言う間にファンに浸透していった。なんせ奴が叩き出す音といったら、そこいらのドラマーが束になってかかってきてもビクともしない凄まじさがあったし、シンプルな重低音はパワーの固まりだった。まさに鬼平、これに変わる名前などどこにも見あたらなかった。全く鬼平はバスドラのペダルは踏み折るわ、皮は突き破るわ、シンバルは叩き割る。力が有り余って仕方がない事なのか、少々本人の叩き方が悪かったということなのか。技術的には下手だったかも知れない、でもそれは俺やマコちゃん篠山、奈良にも当てはまることで、一人一人のテクニックを見せびらかすつもりなど全く無かったし、そんな方向に進んでいたわけでもなかった。それは上手いにこしたことはないが、SONHOUSEというバンドの色やサウンドが前面に出ることをメインに考えていた俺達にはうってつけのドラマーであり、ギター、ベース、ヴォーカルであった。そんなわけでか、よく東京から来たバンドにあんなに下手なのに何で人気があるんだと不思議がられたり、影で笑われたりすることもあった。コピーが中心だった頃はそれなりにテクニックも必要で、又それがすべてだったりしたが、こうしてSONHOUSEのオリジナルを演り始めるとそうした事よりももっと大切なものがあると少しずつ解りはじめていた時期でもあった。今、当時の音を聴いてみると特に下手とも思わないが、PAシステムにあまり慣れておらず、うまく使えていなかったという事はあるのかもしれない。

色々なライブをこなし、時々小さなスタジオでレコーディングのまねごとをしているうちに、東京でデモテープを作る話が出てきた。断る理由もない、即OKした。同じ時期に裕也さんが主催する大きなイベントが日比谷野外音楽堂であり、それに出ないかという話も舞い込んできた。他に金子マリのバックスバニー、近田春男のハルヲフォン、イエロー、紅蜥蜴といった顔ぶれだった。これ迄に九電体育館、スポーツセンター、香椎球場、能古の島、沖縄の野外ライブなど大きなイベントはいくつも経験していたが殆ど九州でのものだったので、東京の大きなイベントはとても刺激的で魅力があった。しかもバリバリのバンドと対決出来ると思うとワクワクした。僅かな不安も無いわけではない、突然の話だったのでポスターやチラシには名前が載っておらずサウンドチェックも無しという不利な条件だった。しかしそれはそれ、一発勝負にはめっぽう強いSONHOUSE、すべて蹴散らしてやる勢いで東京に向かった。


さすがに裕也さんも気を使ってくれたのか、4番手くらいに出させてくれたのは救いだった。司会が九州から昨日上京、飛び入りで演ってくれる太陽の家(!)SONHOUSE!と紹介した。紹介してくれたことは嬉しかったがSONHOUSEは太陽の家ではなく息子の家なので、ステージ上でその旨を伝え直ぐに紹介し直してもらった。ライブはいつものようにクールで過激に演れたと思う。イイも悪いも俺達のイメージが出て俺達らしく演れればそれでよかった。福岡でのステージと変わらず、しかも超満員の客の前、俺は気分良く卑猥なアクション、ふてくされた雰囲気を織り交ぜ、たたみかけるように唄いまくった。30分程のステージだったが初めは戸惑っていた客も次第にノリ始め、最終的にはアンコールまできた。が、それに満足そうな顔もせず益々客を威嚇し続け、「こんなバンド、初めて観たやろう!」と毒をまき散らした。


なんせその頃の俺はロックだろうがフォークだろうが自分達以外はすべてカスだと思っていたし、文句がある奴はいつでも相手になってやるぜとばかりに常に喧嘩腰で突っ張っていたから、恐いモノ知らずで酷くあつかましい、それくらい気がイっちゃってたのだろう。そんな俺でもバックスバニーにちょっと生意気だけどカッコイイギタリストがいるなあと思った。後で分かったのだが、その男はチャーだった。

しかし東京のロックシーンのイメージは全く普通でカルチャーショックも無く、これといってゾクゾクすることも無く、ライバルになりそうなバンドは見あたらなかった。こんなもんか大した事ないな、と本当に思い上がりも甚だしいが正直な感想だった。しかし一つだけスゴイものがあった。それは輸入盤レコードなど豊富な音源が手に入ることであった。福岡ではまずお目にかかれないような貴重なレコードが山のようにある。これではいくら金があっても足らないほどだ。東京のバンドは恵まれている、こんないつでも好きな時にすぐ音が手に入るのだから!しかし店の人はそういうレコードは大して売れないと言う。あまりにも情報が多すぎて外国の流行モノにしか目がいかないのかも知れないし、売れているモノを取り入れるのが新しいサウンドだということになっているのかも知れない。又、関東ウケと関西ウケ、それに福岡でウケるものが違うこともあるだろう。多少の地域性はあるだろうが、それにしても勿体ない!


そういうことで東京に行く楽しみは出来た。山ほどレコードを買い込むというライブ以外の大仕事、どこにも遊びに行かずレコード屋周りばかりしていた。東京=レコード屋のイメージしかなかった。

そもそも東京へはライブよりもデモテープを録りにきたのだから、そのことを書かなくてはならないのだが、あまり記憶が無い。ぼんやり覚えているのはスタジオがやたらデカくて東京のバンドはこんなりっぱな所でレコーディングしているのかと思ったこととか、ヘッドフォンを付けて唄うのが不自由だったこと、こんな録り方でちゃんとしたモノが出来上がるのかということくらいかな。録音したものはシャバくて迫力が無かったと思う。とりあえず言われるままにやってみた、という感じのものしか出来なかった。俺達はまだまだ勉強不足で無知だったのか、まあ落ち込むこともなくかといって舞い上がるようなこともなくこの件については終わった。本格的にレコードデビューする話しがあったわけでもなく(ウラではどんな話しがあったのか知らないが)、ま、なるようになるだろうとまだ気楽に考えていたというのが本音だろう。

 

3★SONHOUSE ファーストアルバムレコーディング

福岡に帰り練習と街をブラブラする毎日が始まった。東京で起こった飛び入りライブやデモテープ作りはもう遠い昔の事のように忘れてしまって、猫が自分のなわばりを見回るようにレコード店に行ったり溜まり場のアウトリガーに行ったり、それでも音楽を聴くことに殆どの時間を費やしていたが、相変わらずレコードを出すという欲望はあまり膨らまなかった。練習の合間の簡単なデモテープ作成や、パワーハウスでのライブ、ちょっとしたコンサートに出演するなどのごく普通の生活の中で、SONHOUSEのオリジナルやSONHOUSEサウンドは着々と固められていった。

淡々とした生活をしていた俺達の周りでは実はレコーディングの話が進んでいた。夢本舗が色々と動いてくれレコーティングは現実味を帯び、その頃にはアー俺達もレコードを出せるんだ、と頭の中や心の中で気持ちが少しづつ騒ぎ始めた。しかしそれが決定した瞬間は喜びより、不安が怒濤のように押し寄せてきた。両手を挙げてバンザイ!なんて気分にはとてもなれず、夢本舗が持ってきた契約書も頭が痛くなるような文字がずらずら並んでいるだけで、まともに読みもしなかった。まあなるようになるだろうと、腹をくくるしかなかった。

俺達はたとえレコーディングしてレコードを発売しても福岡を出て東京を拠点にするつもりなど全く無く、レコード会社や東京方面の関係者にもその旨は伝えてあり問題は無かったので、多少はのんびりとした気分でいられたのは確かだったが、それでも周りの空気は次第に変わり始め、どこからか話を聞きつけた友人やファンはオメデトウの言葉以外に、菊さん東京に行ってしまうんですか?とか、東京に行っても私たちのことは忘れないでください!とか、以前は絶対福岡を離れないと言っていたのに、やっぱり福岡を捨てて東京に行ってしまうんだ、と淋しそうな声で訊ねられたりもした。

しかし俺は東京へ行く気は全く無かったし地元でがんばる気持ちだったのでファンにも、レコーディングやライブ、取材等では日本中どこへでも行くけれど、活動拠点を東京に移すことは無いとはっきり伝えると、みんなとても嬉しそうな顔をしてくれた。その笑顔はとても素敵で今でも俺の中にずっと残っている。

レコードを出そうが人気が出ようが、俺の生き方や生活は変わらないし、いつものように好きなときに好きなところへ行って、街をぶらつき女の子と遊んでいた。本当に驚くほどありのままの生活をしていた。今考えてみれば契約がらみの肝心なことについては真剣に理解しておけばよかったと思うが、時代というかかなりいい加減な雰囲気の中で話は進んでしまったので、細かいいきさつや大事なことは何にも覚えていない。

レコーディングの為の曲についてはその頃には山ほどオリジナルを持っていたから焦ることは何も無かったが、スケジュールが決まってくるとさすがに緊張してきて日々レコーディングのことばかりを考え過ごしていた。レコーディングは東京でやることになった。以前にデモテープも作ったし、夢本舗が持っていたDレーベルで自主制作でのレコーディング経験(キングスネーク・地獄へドライヴ)はあったが、初のフルアルバムであり長いホテル住まいとなると不安な気持ちだった。

東京へ出発の日がやってきた。寝不足の目をこすりながら化粧をする。まるで女のようだが、当時俺は普段も化粧していたからいつものことだった。福岡空港の搭乗口で毎回のように引っかかって、警備員がよってくる。化粧はしている、長襦袢のようなものを羽織り髪は腰のあたりまで長く、全く男か女か、国籍不明ですらある。女と間違われて女性警備員が駆けつけたり、EXCUSE ME ? なんて恐る恐る言われたり、毎度かなりの時間をくっていた。俺はいつものことと大して苦にはしなかったが、周囲の目は結構痛かった。どこ吹く風と気にはしていなかったけれど。

機中では前日に貰ったたくさんのファンレターや女の子達の寄せ書きを読みながら、タバコをふかしていた。ところで、俺はその頃とんでもないほどのヘヴィースモーカーだった。飛行機嫌いもあってか飛んでいる間はずっと吸っていた。普段でも一日100本近く、銘柄は缶ピース、白いTシャツを着れば汗と一緒にニコチンも染み出て黄色に変色してしまう程だった。それからすると今はだいぶ少なくなったね〜。

東京のスタジオは以前は赤坂スタジオだったが、今回は銀座の音響ハウス。まだ出来たばかりの赤坂とは比べものにならないデカくてきれいなスタジオだった。こんな素晴らしいところは福岡には無い。なんだかゾクゾクしてきた、ホテルも街の景色まで新鮮に思えてしまった。

しかしいざレコーディングが始まると、やはりミュージシャンに主導権は無く、制作者側にすべて乗っ取られた感じだった。良いのか悪いのか判断出来ないまま、何度も同じ曲をやらされ、OKも相手の手にあった。これじゃあいけないと思う余裕も無く、作業は過ぎていく。

一日数曲ずつ音を録りホテルに帰る。それっきりなので、ホテルで録った音の確認すら出来ず、ほとんどスタジオの大音響で確かめるしかない。こういう状態で聴けばそれなりにいいように聴こえるが、家庭用のデッキなどでは物足りない音になっていることがよくあるからと心配すると、それは大丈夫とだけ返事が返ってくる。自分たちのプレイは問題無いが、慣れない為か多少の硬さが残ってしまう。そのせいなのか音があっさりし過ぎているように感じたり、ノリが悪いようにも思い、とても満足のいくような出来ではないような気がするが、制作者側はOKを連発する。なんせエンジニアはこれまで演歌しかやったことがないような人だったので、とてもアメリカやイギリスの俺達が好んで聴いていた音には近づきもしない。なんとかそれを解決しようと試みたが、無駄だった。俺の声までも変な感じに聴こえてしまい、決して上手くはないもののそれにしてもひどいヴォーカルじゃあないか。しかしいくら言っても出来ない事を何とかしようとしてもどうしようもないので、とにかくベストのプレイを心がけることに努めた。

自分が思っているヴォーカルやサウンドとは違うものが次々と出来上がっていく、自分でOKが出せないもどかしさ、これはそれまでストレスなんて感じたことすらなかった俺にもかなりこたえる。きっとメンバー全員が不満で、不安だったと思う。なんせこうすればどうなるかなんて、システムややり方がさっぱり解らないのだから。経験の無さだけではすまされない苦痛を伴いひたすら唄ったりプレイしたものを、ヴォーカルを差し替えたり、ダブルにしたり、声質を変化させたり、これまで未経験だったことを一気にドバーッと体験した。レコーディングとはこういうものなのか、米英のバンドもみんなこんな風にしているのかと考えてみたり、しかし何か嘘っぽいなア〜と少々白けてしまったりした。これがレコードになって福岡や全国のファンが聴いたらどんな風に受け止められるのか本当に不安になってきてしまった。このままじゃあ福岡に帰ることもできない。

そうこうしながらSONHOUSE初めてのアルバムレコーディングは終わった。ラフミックスの音源を福岡に持って帰り、家のカセットデッキで聴いてみると、やはりパワーが無い。米英のロックと比べたらすごくスケールが小さいように思えた。またまた不安になり、一週間後東京でトラックダウンが始まる。この作業で少しは良くなるよう僅かな希望を抱いていたが、アルバムタイトルやジャケット等やらなくてはいけないことが山ほどあってどれも手に付かず、良いアイデアも浮かばないまま、夢本舗とMCAミュージックの間でどんどん話は進んでいった。タイトル「有頂天」も事務所サイドの案で、メンバー全員反対だったが、自分たちもこれといったインパクトのあるものが浮かばず、渋々了承。ジャケットもあまり気に入ったものではなかったのに、やはりバンド側にアイデアがなく、これも渋々了承。結局最終的に出来上がってきたものは音もジャケも正直言って不満タラタラだった。

しかし一般の評判は著しく良く、売り上げも当時としては好成績で、レコード会社(テイチク)、MCAミュージック、夢本舗も気をよくして初めての全国ツアーが計画された。それは俺達が想像していた以上の大規模なツアーとなる。

(「有頂天」を今考えてみると、変な、他に類を見ないサウンドで逆にこれで正解だったのかなと思う。ジャケもまあ面白いかなと思えるようになった、当時は本当にすごくイヤだったんだけどね)。

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